ワタシと「NF1

 1

あれは、小学校低学年のときのこと。

近所のお料理やさんの庭に入り込んで、

積み上げられた酒箱の上のジュースの瓶が欲しくて、

その瓶に必死で手をのばした。

飲もうとかそういうことではなくて、おままごとに使いたかったから、

爪先立って、おかっぱの髪を揺らしながら、一所懸命手を伸ばした。

瓶が欲しい瓶が欲しいと。その瓶に手が、届いた途端、瓶が倒れ、

中に入っていた冷たい水が、私の手を伝わって、脇の下まで流れ込んできた。

「きゃつめたい」そう言いながら、自分の二の腕内側を覗き込んだら、

そこに、大きなシミがあった。

7歳まで生きてきて、初めて気がついたシミだった。

『ジュースの中のお水でシミが出来ちゃった大変だ』

そのとき、そんなふうに想った。

『あっ、違う』、私の体には、他にも幾かのシミがあったから、

ジュースの中の水のせいではないな。

ここにも、こんなに大きなシミがあったんだ。

二の腕の内側をひっくり返し、唇を突き出しながら、しげしげと眺めて、

下を向き、深くため息をついたことを今もよく覚えている。

子供心にも痛く傷ついてしまったあの時。

 

生まれたときに、シミが体に0.5cm以上のものが6個以上あれば、

「神経線維腫症1」という病であることを、自分が、母親になってから知った。

もっと早く知っていたら私の人生は変わっていただろう。

シミは、色素斑・カフェオレ斑・母斑とも呼ばれている。

そして、

「レックリングハウゼン氏病」また「NF1」と呼ばれている遺伝性の病。

けれど、

もしかすると、私は突然変異だったのかもしれない。

母は色白でとても美人だった。父は色黒だけれど、シミなんてなかった。

あ〜「シミ」という言葉も嫌な言葉だ。

これからは、『母斑』と呼ぶことにしようか。

思い起こしてみれば、あの頃の小学校では、身体検査のときには、

男子も女子もパンツ一つで、受けていた。

そう、パンツ一つで廊下を走り回ったりしていた。

けれど、母斑があるからと、苛められたという記憶はない。

苛められるほど、子供の頃は母斑は目だたなかったということ。

ただ、一人だけでこんなシミがあってと、小さな胸を時々痛めていただけだった。

なんで、こんなのがあるんだろう。嫌だなあと思い、直ぐに忘れ、

また、直ぐに思い出す。その繰り返しだった。

それは、母のお陰だと思う。母は、私の母斑に対して、何も言わなかった。

もしも、母が『こんな、シミのある体に、生んでしまって』などと言っていたら、

私はきっと俯きっぱなしで、歩いていたことだろう。

母は、女の子なのに幾つものシミがあってと、きっと、思い悩んでいたに違いない。

その点、母には、いっぱい感謝している。

ただ、私が成人し、母親になったときに、ポツリとひと言、言ったことがあった。

「本当は、真っ白な体だったんだよ」と言った。

 

10代・20代の頃は、母斑は数える程度だった。だから、気にしてもしょうがない。

見える部分にはあまりないのだものと、自分に言い聞かせていた。

でも、女だからやはり、気になって仕方なかった。

温泉宿のお風呂もチョット嫌だったし、苦手だった。

他人の目線がとても気になった。

堂々と入れば好いものを心はいつも萎縮していた。

 

けれど、夫と知り合い結婚した。

夫も、私の母斑は気になっただろうけれど、私に何も言わなかった。

それは、優しさだったのだろうと思う。

その母斑による大きな災いが、あるとも知らずに、私は男の子を産んだ。

抱き上げたまん丸の体には、数個の母斑があった。

そのとき「この子、間違いなく私の子だわ」などと、ニコニコと、

呑気なことを言っていた私。

悔やんでも仕方ないけれど、今は産んでよかったと思っている。

息子も、私の病を受け継いでしまったけれど、息子は、シッカリと生きている。

それだけが、今の私の救いになっている。

 

そういえば、

私は子供の頃、母に向かって自分の母斑のことを一言も言ったことがなかった。

「何で、こんなシミがあるの」「何で、私だけこんなのがあるの」と。

何故か、子供心に、言ってはいけない、そう思っていたみたいだった。

言ったら、母ちゃんが傷ついて泣くかもしれない。だから言っちゃだめだ。

そんなふうに思っていたみたいだ。

そのせいか、母は私にとても優しかった。そして、母に言えないだけに、

考え込んでしまったことも多々あった子供だった。

『もっと、もっとこのシミがいっぱい出来て、お嫁さんにもいけないかもしれない。

どうせ人間は死んでしまうのだし、父ちゃんは、私に冷たいし、直ぐ殴るし、

いらない子みたいだし。いっそ死んじゃおうかな』そんなこと思いながら、

深い川の淵にいつまでもしゃがみこんでいた12歳の夏があった。

考えてみれば、おませな子だった。

 

2

28歳の時。

右足が痛く痺れ、どうにも痛くて、右足を引きずるようになってしまった。

痛い痛いといいながらも、仕事には行っていた。

あまりに痛くて、我慢も限界だったから、罹りつけのお医者へ行ったら、

「神経痛かな」と言いながら、「とりあえずお尻に注射をしよう。」

そう言って、

私の臀部の右側に注射をしようと、針を刺す位置を確かめるために、

臀部を数箇所押していたけれど、ある箇所で手の動きが止まり、

しきりに、三本の指で押し始めた。

「うっこれは」と言いながらさらに強く押した。

電流を流したように、右足の付け根から、つま先まで鋭い痛みが走った。

「痛〜い!!

なんという痛みなのだろう。あまりの痛みに息を止めていたら、

医師は、

「これは、神経痛ではありません。もしかすると神経線維腫かも」と言った。

体質的に出来てしまうものでと、詳しくは説明してくれなかった。

「とにかく、精密検査を受け、設備の整った所で、繊維腫を執らなければならない」

と言い、私に日本医大への紹介状手渡した。

これが、神経線維腫摘出の始まりだった。

梅雨最中の6月半ば、日医大への入院が決まった。

臀部に出来た腫瘍を摘出するだけなのにとても不安だった。

良性だとは分かっているけれど、神経を傷つければ、何らかの障害が出るという。

失敗したらどうしよう。足がびっこになったらどうしよう。

そんな思いでいっぱいだった。

それよりも、幼い息子を置いて行くことがとても、不憫でならなかった。

義母が面倒を見るとは言っても、私のいない日々に、私を探すだろうな、

息子への想いは、際限なく広がっていった。

なのに夫は、仕事が忙しいといい、「一人で行ってくれ」そう言った。

寂しなあ。冷たいなと、心底あの時思った。

大きなスーツケースに入院に必要なものを詰め込みながら、

せめて一緒に行ってくれたらと夫を恨めしく思った。

駅に近い実家へ寄り、「これから行く」と告げると、

「一人で行くの?」と母がポツリと言った。

「ウン大丈夫心配ないよ」と言って、

スーツケースをコロコロ転がしながら駅への道を歩き始めた。

振り返ると、白い割烹着を着た母が何時までも手を振ってくれていた。

あの時、母の目に涙が光っていたっけ。

 

日医大では、第一外科のS外科部長が執刀とのこと。

神経線維腫は広汎的にできるので、あらゆる箇所を検査するという。

胃・腸・脳・耳・目・後、何処をしただろう。

何のことはない、検査に二週間ほどを費やし手術だった。

入院しているある日の夕方、主治医になったO先生が、

「一階の外来の診察室まで来てください」と言った。

こんな時間なんだろう。もう、人気のなくなった外来の診察室へ行くと、

カーテンが引かれ、その中から「こちらへどうぞ」の声。

カーテンを引き中を覗くと、先生一人だった。

「お願いがあります、母斑の写真を撮らせてください」

「私の写真ですか?

「上半身を脱いで、ここへ立ってください」有無を言わさぬ言い方だった。

もっと前に言えばいいのにと思いながらも、しぶしぶと先生の言うとおりにした。

そして、支度ができた途端、カーテンを開けて入ってきたのは、

カメラマンのようないでたちの人だった。

思わず、「キャー」と悲鳴を上げて「先生が撮るのじゃないのですか」と聞いた。

逃げ出したかったけれど、身動き取れなくなってしまい、俯きながら写真を撮らせた。

無性に恥ずかしく、無性に情けなく無性に腹が立った。

だから、その後は、母斑の写真は撮られるものと思い始めたのだった。

臀部腫瘍は無事摘出された。

神経線維腫は、広汎的に出来ると言われたけれど、体中を検査した結果、

何処にも、何もなかったから、あ〜もう大丈夫これで終わったんだ。

この臀部腫瘍で、摘出手術は終わりだと思った。

もう、大丈夫。神経も傷つけなかったし、足もビッコにならなかったし、

あ〜よかったあと満面笑みで喜んだ。

同室には、心臓・癌・水頭症等々、重い病気の方たちばかりだったから、

自分の軽い手術を申し訳ないと思った。

あの頃、体には、薄茶色の母斑は、腹部。腰部、背部に数個

あるだけだった。手術すれば、その母斑の数も減少するのではないかと、

バカなことを思っていた私だった。

その後、どんなことが起きるかも知らずに呑気だった。

あの頃の自分を今思うと、とてもこっけいだ。

なんで、腫瘍を執ったからと母斑がなくなるなんて思ったのだろう。

そんなふうに思い込むことで、あの時、将来の不安を打ち消していたのかもしれない。

治療の方法は無いのだから、あがいても仕方なかった。

 

3

 

やがて、二男が生まれ色が白くて、シミ一つなくて、とても綺麗な体をしていた。

夫にそっくりだった。

30代始め、子育てに仕事に追われる日々の中で、夜がとても怖かった。

そう、セックスに恐怖を感じていた。

拒否する、喧嘩になるの繰り返しだった。

行為の時、右足に痛みが走り、足の感覚がなくなってしまうほど激痛が走った。

とても怖かった。何の痛みなのだろう。

何処かおかしいのかな? 

そう思いつつも、医者にも行かず痛みに耐えていた。

痛いのだと伝えても、いくら話しても、分かってもらえず、喧嘩ばかりしていた。

そんなある日、私は妊娠した。

拒否していたのに命が芽生えてしまったのだから皮肉といえば皮肉だった。

産婦人科で受診したら、

「奥さん子供は二人いましたよね」

「ハイ。息子が」

「二人いれば、もういいと思うけれど」と言葉を濁した。

嫌な予感がした。医師と向き合ったときに、

「赤ちゃんは産めません」と言った。

「・・・・・」言葉を出せずにいると、

「下腹部に、握りこぶし大の腫瘤があります。赤ちゃんどこじゃないです。

二人いるから、もういいでしょっ」

三人目が出来たと喜んだのに、束の間の喜びに終わってしまった。

本当に切なかった、「切ない」のひと言では片付けられなかった、

せっかく宿った命を抹殺しなければならないなんて、

「ご主人と相談してきてください。」と医師が言った。

力なく病院のドアを開け、歩き出したとたん、涙が流れ、下腹部にそっと手をやって、

「ゴメンネ。ゴメンネ」と言いながら家へと歩いた。

そして、夫に話をしたら、

「また、手術かよ、それより俺の子か」余りの衝撃的な言葉に、

私は言葉を見失ってしまった。

又手術かと言われたことよりも、

「俺の子か」の言葉にズタズタに神経を傷つけられてしまった。

拒否ばかりしていたから、そんな言葉を発したのだろうけれど余りに酷い言葉だった。

もう、この人を愛せない。こんなに、冷たい言葉を投げかけるなんて許せない、

絶対に許さない。もう、愛さない。絶対に愛さない。

私は、そのときから、優しさに飢えた人間になってしまったようだった。

口を利かない日々が10日ほど経った頃、車の中で、夫がポツリと言った。

「医者へ行かなければ、この間は悪かった」と。

けれど私は、許すことが出来なかった。男の身勝手で発した言葉とはいえ許せなかった。

命が宿ったのに産めない。堕胎は一つの殺人だ。

吾が身を守るために芽生えた命を闇に葬ることにたとえようのない罪悪感を持った。

悪阻は容赦なく襲ってきたし、何もしなくとも、右足が痺れはじめた。

仕方なくO医師の元を訪れ堕胎をした。

あの子はきっと女の子だったろうな。O医師は、私に向かって言った。

「ついでに子宮も執ってしまいなさい」と・・・・。

子宮を執る。それには 抵抗があった、女でなくなってしまうような、

そんな感じで妙に抵抗したくなってしまっていた。

それを夫に言ったら、

「子宮がなくなると、鳥居があってサンドウがあってお宮がないということだよな」

と真剣な顔をして言ったのだ。

腹が立つより、何故か、妙に納得してしまった私だった。

子宮は執らない、そのことで、夫とワタシの意見は一致した。

紅葉の季節に、O医師の紹介状を持って、都下O市総合病院の産婦人科へ入院。

執刀は、N産婦人科部長だった。

N医師は、私の目の前でサラサラサラと絵を描いた。

まるで、ヘビが大きな獲物を飲み込んだような絵。

細い線の真ん中に大きなふくらみが描かれた絵だった。

「神経の中にこのように腫瘍があります。

神経を切断しないように腫瘍の周りに何箇所かメスを入れて、て摘出します」と言った。

やはり、神経線維腫だったのだ。

この医師で大丈夫だろうかと、ふと思ってしまった。

患者と医師は、信頼で結ばれなければいけないのに、不安がよぎってしまった。

神経を傷つければ何らかの障害が、その箇所に出てしまうことは、

日医大に入院したときに聞かされていた。

あの時、【脳に出来たときは、覚悟するようですね】そんな言葉をあの時言われたのだ。

この手術で神経を傷つけたら、どんな障害が出しまうのだろう。

夫は、手術の前。

「大丈夫だよ。この前だってうまくいったのだから心配すんな」と軽く言っていた。

もし、傷つけたら、そんなことを考えながら、全身麻酔で私の意識は遠のいていった。

術後・・・ポッカリと目が覚めたような記憶がある。

二日目の夜。右足の激しい痛みで一睡も出来なかった。

余りの痛みに体を動かすと、開腹した疵が鋭い痛みを発っした。

右足を取ってしまいたいほどの激しい痛みだった。

吐き気を催すほどの激しい痛みだった。

海老のように体を丸め、お腹を庇いながら足をさすって、なんなんだろうこの痛みは、

腹部の疵よりも痛いなんて、不安が暗い闇の中から押し寄せてきた。

そして痛い痛い痛いと私は、泣き叫んでいた。

看護士さんに訴えると足も診ずに「痛みは我慢してください痛み止めはもう使えません。」

そう、冷たく言われた。だから、じっと痛みに耐えてた。

長い夜が明けたとき、「今日からトイレへ行ってみてくださいね」と言われ、

私は、お腹をかばいながらベッドから起き上がり、ベッドから足を下ろした時、

一晩中苦しんだ激しい痛みは嘘のように引いていた。

立ち上がり、一歩 二歩 歩き出したとたんに、右足の感覚がないことにきずいた。

その途端、床に倒れこみ、冷たいリノリュームの感触を頬に感じていた。

飛んでくる足音を耳にしたことまでは覚えていたけれど、意識を失ったようだった。

気がついたら、私はベッドにいた。そして思った神経を傷つけられたんだと。

『非骨神経麻痺』だった。

俗に言う「鳥足」つま先が、自力で上げることが出来なくなってしまった。

医師を恨んでも仕方ない。

術後、よく転んだ。今まで何回転んだろう。

擦り傷が絶えなかった。補装具も作った。そして履いた。

息子の保育所の運動会で、思い切って走ったら、見事転んしまい、

息子が心配し、「お母さん走らないで」と言ったあの時の泣き顔。

切ない思いをさせたなあと反省仕切りだった。

今も、油断すると良く転ぶ。

あの頃、

友人の整形外科病院の副院長が、私の足を診て「ぜったい補そう具を外そう」と言った。

「俺の病院へ毎日通え」と言ってくれた。

仕事を終え、彼の病院へ毎日毎日通った。

夕暮れの道を歩きなら、私は何でこんな所を歩いているのだろう。

補そう具をつけた右足に神経を注ぎながら歩き、真っ赤な夕焼を見て涙が出た。

いつも帰りは19時近かった。そんな日が一年半続いた。

マッサージを受けながら、マッサージの先生が言ったっけ、

「スゴイ柔かいって、赤ちゃんの肌を触っているようだ」といった。

悪く言えば、しまりがないということなのだろう。

確かに、柔かい肌みたいだ。この病気の特徴なのかもしれない

雨の日も風の日も雪の日も猛暑のときも、一所懸命、毎日通った成果が出て、

補そう具を外すことが出来、スカートも履けるようになった。

あの時はうれしかった。しかし、麻痺が治ったわけではない。

踏襲力のない右足だったけれど、ただただ、綺麗に歩きたい。

そんな気持ちに全神経が注がれていた。

だから、私は、

私の肌に少しづつ出始めた神経線維腫をさほど気にかけていなかった。

そう、

神経線維腫は外から見えない肌に少しづつあの頃から、ぷつりぷつりと出始めていた。

そして思った。

もしも、生まれ変わることが出来るのなら、

綺麗な肌で生まれ変わりたいと切実に思った。

ブランとしてしまう足は、筋力がおとろえて、だんだん細くなってきてしまった。

大根足だったのに、すんなりした足になった。

嬉しいような切ないような複雑だった。

手術で神経を傷つけなければ、こんな足にはならなかった!!

それは、確実に言えることだ。

今なら、医療ミスで訴えることが出来たかもしれない。

時々あの医者が憎く思えるときがある。

腕の確かな医者が手術していたら、麻痺など無く上手くいったのかもしれない。

 

4

 

そして、

女の大厄の33歳のとき

子宮筋腫が酷くなり、結局はまた開腹手術を子宮を摘出した。

 

1979年。気になっていた耳の痛みが酷くなってきた。

激しい頭痛も起きてきた。

早くナントカしなくちゃ、でも仕事も忙しい。

また、休まなければならない負い目があって、なかなか、上司にいえなかった。

夫に相談しても・・・、

「またかよ」の返事。

一つの優しい言葉も掛けてくれず、苦虫を噛み潰した顔をした。

仕事仕事仕事仕事しか頭になかったあの頃の夫。

そのうち、会社に命を削られちゃうから、そう、私は、思っていた。

「大丈夫か、痛くないか」なんて、ひとこと言ってくれたなら、

痛みはきっと軽減していただろうに。

 

都会は暑かった。

S先生から紹介された耳鼻咽喉科のY先生のもとを訪れたのは、

ジリジリと太陽が照りつける八月始めだった。

もう、入院もなれたもの、一人で行くから言い出かけたのだった。

Y先生が言った。

「左耳の後にビワほどの大きさの腫瘤がある、耳の後ろからメスを入れて執り出します。

ただ、顔面には神経が、走っていて、顔面神経を傷つけたら、顔が曲がってしまう。

そんなことは、絶対に起きないと言い切れない。そういう事態が起こることもある。

承知しておいてください」・・・と。

局部麻酔、全ての音声が耳に入ってくる。右耳はシッカリと聞こえるのだから、

どんな微かな音も聞き逃さない。

そう思いながら、耳をそばだてていた。

私の頬は涙でぐしょぐしょだった。

左目から流れ落ちる涙が、右の目を伝わり、右耳の脇を通り抜けて行く、

顔が曲がったらどうしよう。

嫌だそんなの嫌だ!!その思いでいっぱいだった。

Y先生が「そんなに泣くなよ、大丈夫、泣くんじゃないよ」と声をかけてくれた。

看護士さんの温かな手が、ずっと肩に触れていた。

約、一時間ほどで手術は終わった。

麻酔が効いていて、左半分は感覚なし。顔・・・曲がっちゃったかな?

両手で顔を包み込み。曲がってるかな? 曲がってないかな?

そっとさすってみる。曲がってないみたいだ。曲がってないぞ・・・と。

ふう〜〜〜っと深いため息一つついた。病室に戻ると夫と弟が待っていた。

「顔曲がってる?」「曲がってないよ」と頬を撫ぜてくれた。

顔が歪まなかったことにとても感謝した。

もし、顔が曲がって歪んでしまったら、どんなふうな顔になっていたのだろう。

 

 

5

母が亡くなったのは、1988年9月16日。その一ヵ月後。

ベッドに入ったら突然激しい頭痛と激しい心臓の鼓動に襲われた。

頭の中をかなづちでガンガンと叩かれているような痛み、呼吸をするのさえ苦しい。

全身が心臓になったような烈しい鼓動。なんだろうこれは?

目を硬く閉じ海老のように丸くなり、じっと苦しみに耐えた。。

40分〜50分もたつと・痛みと激しい鼓動は去っていた。

痛みの去った後の烈しい虚脱感、去っていた痛みは何だったのだろう?

まさか、アイツが来たのじゃないだろうな?

神経線維腫が、再び現れたのかな?

3年・5年の間隔で手術を繰り返していたけれど、神経線維腫はなりをひそめてた。

ただ一つ、左の背中にしこりがあったけど、それほどの痛みもなかったので、

そのまま放置していた。

まさか、イヤそんなはずはない・・・。

この発作は数ヶ月に一回襲ってきた。「あっ来る」。発作が起きるときは、

必ずと言っていいほど。頭の中を何かが、ヒーーーーンと通り過ぎるのだ。

ある医者に罹って、状態をを説明したら「自律神経失調症だ」と言われてた。

発作の頻度が多くなり、あまりの苦しさに1990年の春、人間ドックを受けた。

その結果。硬膜下腫瘤の疑いと他に異常なしの通知があった。

あぁ、背中のシコリのことねと、自己診断をしてそのままにしてしまった。

翌年、1991年の春、また、医療センターでドックを受けた。

結果は文書でなく、直接、医療センターのM医師からの電話だった。

「褐色細胞腫」の疑いがあるとのことだった。

「褐色細胞腫」耳慣れない病名に不安が広がった。

とにかく、入院して検査を受けるようにと言われ、『また手術なのかな』

とても恐かった。闇がワタシを包んでいった。

反面このまま。心臓が、急停止すれば。楽になれる・・そんなことも想った。

桜が満開の中、医療センターへ検査入院。

あの時の散っていく桜はとても綺麗で、妙に愛しかった。

「散りゆく桜は死への想念を掻き立てる」そんな言葉が頭を掠めた。

一週間の個室での生活は快適とはとても言いがたい。

部屋にあるトイレでストップオウォッチを片手に検尿コップを持って

何秒でオシッコがでたか・・・。これは大変だったし、変な格好だった。

デモあの時は必死だった。その尿をビンへ貯める。いろいろな検査をしたのに、

何故かこの検査だけ鮮明に覚えている。

医療センターのM医師が言った。

「検査の結果100%褐色細胞腫です。11年医者をやっていて、アナタで二人目です」と

言った。気のせいか、先生の目が光ったように感じた。

腫瘍から、カテコールアミンと呼ばれる物質が蓄積されて一度に分泌されるから、

頭痛。動悸が起こるのだといわれた。放置すれば。高血圧のために、不整脈、脳卒中を起こ

すことになるという。

左副腎の摘出手術になりますといわれ、防衛医科大学校のT教授を紹介された。

副腎を執るって、腫瘍を執れば楽になるんだ。腎臓を執る人だっているじゃないか。

副腎を執ればいいんだ。そうすれば楽になる。

そして、5月24日防衛医大へ入院した。

手術までいろいろな検査が続き、ホルモンの調整をするといわれて、

難しい薬を飲まされ、私の顔はどんどんと黒ずんでいった。それでなくともブスの部類に入

るのに、日ごと、黒ずんで行く顔をみるのがとても辛かった。

髪も短く刈り上げるように切ってしまっていたから、まるで男みたいだった。

微かに胸のふくらみで女かな? だった。

手術の承諾書を記入するときに夫と姉が付き添って説明を聞いた。

医師は、どんなときでも最悪の状態で話をする。

そう、分かっていても、聴くのは毎回嫌なものだ。

褐色細胞腫は触れるだけで血圧を上げてしまう。

なので、手術中に血圧が200以上に上がってしまうこともあり、

その場で脳出血を起こしたり、死にいたることも稀にある。

ただ、手術がうまく運べば、術後は発作も起きず、スッキリとなります・・・。

ほかにも、

アドレナリンだのノンアドレナリンだのカテコルアミンだのと言っていたけれど、

私の頭の中には、脳出血・死亡・その言葉きり残らなかった。

 

 

6

 

手術は612日に決まった。

窓側のベッドで、毎朝、昇ってくる朝日に向かって手を合わせた。

母もやっていた「日の出信仰」「どうぞ無事に手術がおわりますように」と毎日祈った。

そんなある日。夫が来て、「12日は、大事な会議があるから来られない」そう言った。

一瞬耳を疑った仕事人間の夫のこと、仕方ないと思ったから、

「分かった」と、言い後は、黙っていたら、怒って帰ってしまった。

「大丈夫、俺が居なくとも成功するよ」とひと言言ってくれたなら。

どんなに心が安らいだことだろう、なのに、プンプン怒って帰ってしまった。

前のときもそうだったものな、アイツは冷血動物だ。大嫌いだ、愛してなんか居るもんか、

そう一人で毒づいていたら、急に、発作が襲ってきた。

看護士さんか慌しく行き来して、医師が来て、薬を投与された。

病棟士長がずっと傍で手を握って「大丈夫、信頼して手術受けよう」と言ってくれた。

何故か、涙が止まらなかった。

あの時の、士長さんのカウンセリングはとても私を落ち着かせてくれた。

私の、褐色細胞腫を担当する、T 教授の回診。

ゾロゾロゾロゾロと大勢の医師や学生らしき人を引き連れていた。

「明日の手術頑張りましょう」と言いながら「このように切ります」

そういって、みぞおちの辺りから左わき腹へかけてL字型に教授の指が這っていった。

かなり切るみたいだな。まあ、任せるしかない。

そして夜。消灯前、夫に電話をした。

「明日は行けない、がんばってくれ」と言った。

冷たい声に聞こえてしまい。

「仕事のほうが大事なのね危険を伴う手術なのに心配してないんだ」

「仕事と手術は別問題だ。とにかくいけないから」

「これが、最後の声かもしれないよ、じゃあね」ガチャンと電話を切った。

あの日の会話は・・今も耳にはっきり残っている。

嫌な切り方をしてしまった想いと、どうにも寂しくてやりきれない想いで

どうしようもなかった手術前夜だった。

612日手術の朝。術前処置をされて、ベッドに居たら息子二人と姉が来た。

息子二人の後に目をやって夫の姿を探したがいなかった。

息子が「大丈夫だからがんばってよ」「終わるまでずっと待っているから」

「お父さん、仕事が終わったら来るから必ず来るから」と、

必死にワタシを元気付けてくれた。

「天皇陛下のお腹も触った教授が、手術してくれるんだもん。大丈夫だわ、

とにかくがん張るからね」と、私はニコニコと返事をした。

息子を不安がらせてはいけない・・・笑わなくちゃ・・・・。

そのうち補助麻酔のために意識が薄らいでいった。

私は、どのくらい自分の時間をなくしていたのだろう。

13時間近く目を覚まさなかったらしい。

遠くのほうで誰かが呼んでいる。

そんな感じで、うっすらと目覚めたようだった。

「あ、覚めたな」という主治医のO先生の声。

手足を動かそうと想っても動かない! 麻痺!! 目が覚めたということは生きている。

生きているんだと想った。「さあ、紐を解いてあげる」とO先生が言った。

「何しろ凄い暴れて、暴れて、凄い格好だったんだぞ、肌も露になってしまうから、

両手足を縛ったんだ手術は成功したぞ、麻痺もないし、成功だ!!」。

その言葉を聴いたとたんに、涙がポロポロとこぼれた。

「よかった・・よかったよかった」と繰り返し言った。

O先生が温かな手で、私の手を包み込んで・・。

「ご主人ずっとここにいたぞ、名前呼んでたぞ」そう言った。

でも何故か、嬉しくもなかったし来てくれたんだという気持ちにもなれなかった。

とにかく手術は成功した。

 

 

7

褐色細胞腫の手術をした後、私は夫にひとかけらの愛情も持てなくなった。

話しさえろくにしなかった

返事もろくにしなかった。

「二度と話しなんかするものか」と全ての夫との交渉を遮断した。

そして、暑い夏の間、退職することを考えていた。

退職を考えたら、気持ちがとても楽になっていった。

 

そして退職願をそうとした日・・・・・。

1991年9月10日。

夫が脳梗塞で倒れた。

【二度と、話なんかするものか】

そう思っていた私に、神様は、見事、夫から言葉を奪った。

頑なになっていた

私への罰そう思った。

新たな闘いがここから始まった。

 

夫が、【右半身不随全失語症】となってから、

褐色細胞腫の再発の危機もあったけれど、

私の体内の大きな神経線維腫はなりを潜め、

耳の腫瘍の再発。

悪性へ転移するかもしれないという小さな腫瘍を数回摘出しただけで、

数年が過ぎていった。

夫は、言葉を失い、右半身の機能を失っていったけれど

多分

私の病を吸い取っていってくれたのだと、今はそう思っている。

褐色細胞腫の再発の危険は有るけれど、もう私は【摘出手術はしない】

信念で病を跳ね除けるそう思っている。

 

最近は、

傷だらけの体でも

母斑があっても

繊維腫が目立っても

臆することなく温泉へ入れるようになった。

これからも

臆することなどしない

常に威風堂々と生きていこう。